ぼくの観察日記

思ったことを書いたりします。

オタク的描写、作者のインプットとアウトプットの限界




 アニメキャラの誰かがオタク、という設定は誰もが見たことがあると思う。また、そのオタクキャラによっていくつかのオタクイベントが発生させられる場面を何度も見たことがあると思う。特に、最近では多くなった作中でのオタク的描写に対して、「ちょっと多くない?」と感じてる視聴者も少なくないだろう。

 

 

 古いもので『らき☆すた』、最近では『セイレン』『小林さんちのメイドラゴン』などがコミケの描写を加えたり、もしくはイベント描写は無くとも、単純にキャラがオタク的設定であったり、多くの作品で”オタク的要素”を見つけることが出来る。

 

”アニメや漫画・ラノベが大好き”、”実は同人誌も作ってる”、”ネットスラングを喋っちゃう”、等々。作品によってその個性は様々である。仲良しグループに1人、上手く溶け込んでいるオタクという意味では、これほど羨ましい話も無くまさにフィクション的で憧れてしまう対象である。

 

 しかしながら一方、あまりにも押し付けがましい描写が鼻につく場合も少なくない。加減を間違えれば、オタクへの好感度の押し付けと思われるかもしれないし、「折角の美少女キャラなんだからオタクなんていう属性は付けてほしくなかった」なんて文句を言われてしまう可能性もある。(オタクの醜さはオタクが一番よく知っている。)

 

あるいは、作者のインプットという部分の限界が、作中にチラついてしまう。オタク受けする作品を作っている作者のほとんどがオタクであるという事実において、作者の嗜好や常識というものがオタク的要素に偏っている場合は珍しくない。すなわち、インプットされる情報の多くがそういった偏りを持ち、キャラの設定に対しての”もう一歩!”のところへオタク的なものが滑り込んでしまう。(のかもしれない。)

 

経験したことの無いことでも、まるで経験したことがあるかのように描かれる。というのが理想だが今回の場合では、経験したことのある事をそのまんま描かれている。さらに言えば、視聴している側の人間さえも知っていること、経験済みのことを、まるで答え合わせかのように描写されている。それは果たして作品と呼べるのだろうか?

 

 このままでは、作品の多くが冒険的でなくなっていく気がしてしまう。非現実的で有り得ない創造物や、経験したことの無いシチュエーションが描写され、それを介して視聴者が”体験”を得る、という意味での物語性のあるものが少なくなっていくのでは無いかとさえ感じる。(日常系アニメの流行によってその危機感は更に大きくなる。)